その473 ハッピーバースデイ 2017.11.4

2017/11/04

10月下旬、サントリーホールでイーヴォ・ポゴレリチのピアノリサイタルを聴いた。
ホールが開場となったとき、彼はスウェットのようなラフな格好で、
ステージの上で静かな曲を本当に小さな音で弾いていた。
開演時間の15分前になっても彼は弾き続ける。
時々会場を見渡して、お客はぼちぼち入ったかな、という雰囲気。
スタッフが彼に近寄り、そろそろ、といった感じで話しかける。
10分前になって彼はようやくステージの左のドアへ消えた。

 

「今日はやめだ、お客も少しは私の演奏を聴いたからもういいだろう。」
といったことにならなければ良いがと私は願った。
予定より10分ほど遅れて開演ベルがなり、
黒いステージ衣装に着替えたポゴレリチ氏がステージに現れた時はほっとした。

 

最初の曲はクレメンティのソナチネ。
ピアノを習ったことのある人なら小学生の時に弾いた、軽快な曲だ。
続いてハイドンのソナタ。2曲ともドラマチックな展開のある曲ではないが、
細かな強弱や表情のつけ方が印象的だった。

 

続いてベートーヴェンの熱情ソナタ。
全体に抑制のきいた演奏だったが、終楽章のコーダは別物。
右手のソミドミ・ファドファラ、通常は4つの音のまとまりに惰力をつけて
力を抜いて手首のバネで弾く演奏が多いが、彼は違った。
エンジンのピストンが全力で回転し、一音一音を打ち抜くように弾いてゆく。
目が覚めるようであった。

 

休憩後の後半、最初はショパンのバラード第3番。
1980年、個性的な解釈でショパンコンクールに衝撃を与えた時もこのようだったのか。
メロディーを失う寸前まで自由にルバートするバラードだった。

 

リサイタルの圧巻はこの後のリストの超絶技巧練習曲とラヴェルのラ・ヴァルス。
リストのエチュード「狩」「鬼火」は若いピアニストならばスマートに弾くこともよくあるだろうけれど、
50代後半のピアニストがこんなにも熱く、がっちりと
しかも軽やかなところはどこまでも軽くなめらかに弾いたのは、
「この人ホントにリアルに、こんな風に弾いてる」と思う感動的な演奏だった。
第10番のエチュードは、甘いメロディーにたるみがあると飽きる曲だが、スッキリと超絶技巧でまとめ上げ、
最後のレドッ、シドッ、レドッ、シドッ、レドッ、ソファッ、ミレッ、はこちらの耳がついていけないくらいだった。

 

最後はラヴェル。
チケット発売時に予定されていたのはスクリャービンのソナタ第3番だったが、変更になったようだ。
スクリャービンのソナタ第2番を彼は録音している。
第3番を楽しみにしていたので、変更は残念だったが、
巨大な熱いエネルギーの塊がどこまでも高く高く昇っていくようなラ・ヴァルスの盛り上がりは素晴らしかった。

 

1990年代に聴いた彼のリサイタルの最後の曲はシューマンの交響的練習曲。
その時カーテンコールに応える彼は、舞台の袖で手を後ろに回して、「腰、いてえんだよ。」といった感じだった。
今回、ラ・ヴァルスを弾き終えた後、立ち上がって「ふう、ちょいと疲れたよ。」という表情。
にもかかわらず、アンコールを2曲演奏してくれた。
リサイタル当日は、彼の59歳の誕生日だそうで、
ステージに大きなバースデイケーキが運ばれ、聴衆みんなで「ハッピバースデイ ディーア イーヴォー」

 

同年代だからと言って、自分と一緒にしてはいけないけれど、ますます頑張って精力的な演奏をしてもらいたい。
私も頑張ろうという、勇気をもらったリサイタルでした。